HISTORY OF MITSUBISHI

東京 製作所

東京都心にあった、加工事業の故郷

東京製作所

当社の加工事業は、1931年に発売された超硬工具「トリディア」に始まります。その誕生と歴史の中心にあったのが東京製作所でした。当時の工場としては珍しく、東京都心の一角にあり、戦前戦後から高度経済成長期、バブル経済と激動の時代の流れを見つめながら、日本の超硬合金メーカーとしての礎を築き上げてきました。

超硬合金加工の始まり

 東急大井町線の下神明駅から歩いて数分。現在「しながわ中央公園」となったその場所には、元気に走り回る子供たちの声が響き渡ります。今でこそビルが立ち並ぶこの東京都心部に、25年ほど前まで稼働していた当社の東京製作所。今から遡ること約100年。この場所で日本の超硬合金加工の始まりともいえる当社の超硬事業は産声を上げたのです。きっかけとなったのは、1916(大正5)年。三菱合資会社社長に就任した岩崎小彌太の発案により日本初の民間企業による研究機関「三菱合資会社査業部内鉱業研究所(現三菱マテリアル 中央研究所)」がこの地に設立されました。タングステン関連の研究にいち早く着手し、1923(大正12)年には超硬合金の研究が開始されます。1926(大正15)年には、ドイツのクルップ社により世界初の超硬工具「ウィディア」が登場します。その驚異的な切削性能に触発され、世界各国で超硬合金の研究が加速。当時の鉱業研究所の研究員も、1927(昭和2)年のイギリス留学中に「ウィディア」の切削実演を目の当たりにし衝撃を受けます。超硬合金の未来を確信した当社は、研究所における開発を加速。しかし当時の超硬合金の開発はまだまだ課題が多く、なかなか実を結びませんでした。なんとか製造段階へと辿り着いたのは研究開始から約8年後の1931(昭和6)年。ついに「トリディア」の製品名で販売にこぎ着けます。この頃、鉱業研究所全体としては大宮に移転を決定しましたが、軌道に乗り始めていた超硬合金開発事業だけが「大井支所」として、この地に残留することになります。

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創業当時の鉱業研究所。超硬合金の研究はこの建物で始まった。 / 1937(昭和12)年当時に撮影された記念写真 / 大増産対応のため6階建ての新館建設
高度経済成長期(1960年頃)の大井工場 / 増築工事を繰り返した東京製作所 / CAD稼働による作業の様子

厳しい戦禍をくぐりぬけて

 1939(昭和14)年に第二次世界大戦が開戦すると、その影響は日に日に増していきました。当時、超硬合金やステライトなどの軍需品の生産が相次ぎ、従業員が次々に出征していく中、工場はなんとか生産を続けます。1943(昭和18)年には、超硬合金の月産は1トン、ステライトは3トンを超え「東京金属工業所」として鉱業研究所から独立を果たすのです。東京への空襲が始まった頃、同工業所は国の重要工場に指定されていました。1944(昭和19)年には、工場も大きな戦禍を受けましたが、従業員たちは懸命に設備を守り抜きます。終戦後、同工業所は賠償工場に指定され、全てを没収される恐れが浮上しましたが、当時の経営層の苦心の末、なんとか指定解除にこぎ着けます。こうしてさまざまな苦難を乗り越え、ようやく生産の再開を果たします。しかし、戦前軌道に乗り始めていた超硬事業も時代の影響を受け、製品の買い手がなかなかつかず、やがて経営不振は深刻化。経営側は工場と従業員の部分縮小を提案しますが、労働組合側は「部分縮小により、1人でも抜けてしまうのであれば工場閉鎖」と主張。最終的には、1948(昭和23)年10月31日にほぼ全ての従業員がいったん退職という道を選ぶこととなります。しかし「いつかきっと、また皆で再開できる」とお互いに固く信じ合い、工場の維持と技術の温存ができる最少人数のみを残すことを決めました。当時、欧米で使われ始めていた鉱山用ビットの開発を地道に進めながら再起の時を窺います。幸いにも間もなくして念願が叶い、同年12月には工場が再開。退職者も速やかに戻り、全員で再興に情熱を燃やしました。

高度経済成長とバブル経済の波を受けて

 1952(昭和27)年には、同工業所は「三菱金属鉱業大井工場」と改称。時代は高度経済成長期を迎え1955(昭和30)年には戦後初めての黒字を計上します。その後も増産に次ぐ増産を重ね、1967(昭和42)年上期から翌年の上期まで、3期連続で社内No.1の収益を達成し、全社を支える屋台骨の事業にまで成長します。1969(昭和44)年には「大井だけでも日本一にはなれるかもしれないが、世界一にはなれない」と判断し、岐阜工場を設立。1970(昭和45)年には同大井工場を「三菱金属東京製作所」に改称します。トリディア誕生から約35年が経過し、当社の超硬事業が本格的に世界へ進出していくことを決意した節目の時期となりました。

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筑波製作所移転前(1986年頃)の東京製作所 / 工具設計作業の様子 / 跡地は現在「しながわ中央公園」に

今も息づく東京製作所のDNA

 「三菱金属鉱業大井工場」が「三菱金属東京製作所」として生まれ変わり、ますます勢いに乗り始めた当社の超硬事業ですが、急激な成長が仇になります。短期間での大幅な需要拡大に徐々に対応できなくなり、さらには顧客サービス力、開発力なども低下し始めます。立地が都市部であるが故に、工場の建屋が拡張しにくく、従業員への福利厚生面においても、この場所で永続的に事業を拡大していくのは困難な状況に陥りました。この状況を打破するため、茨城県の筑波研究学園都市近郊にある結城郡石下町(現常総市)が東京製作所の新たな移転先として持ち上がります。そして、1992(平成4)年3月に筑波製作所に正式に移転。東京製作所は、その歴史に幕を下ろします。戦前から現在に至るまで、激動の時代を生き抜いてきた「チャレンジ精神」「自立自存の精神」こそが、東京製作所のDNAといえます。このDNAは、筑波製作所をはじめ、全ての従業員に着実に受け継がれています。1931(昭和6)年に当社が「トリディア」という名称で超硬工具を商品化、発売をしてから85年の月日が経過しました。この85年を次の100年へ。さらなる飛躍に向け、私たちは歩み続けていきます。

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